会話の理論
お久しぶりの投稿になってしまった…
今回はTVから派生した体験談をひとつ。
性善説が全てではない/本質を浮き上がらせることとは
- 太田光のリアリストぶり
それは神戸市で起きた『教師いじめ問題』をトピックとして取り上げている時。
スタジオのパネラーがこぞって、教える立場の人間がしてはいけないなどの
予定調和のコメントからスタートしたところ、太田は、
「いじめは楽しい」という人間の本質を話しはじめた。
テリー伊藤の早朝バズーカを例に出し、番組だからといった環境の違いは関係なく、
どこでやっても面白いと評する。
人はこけたり可笑しいことをする所を「可笑しい」として面白がる。お笑い芸人は
それを意図的に誘発させる。ボケとツッコミの関係である。
人間が有する「可笑しみ」と「いじめ」の境界線はない。その理論を持ち込むことに
抵抗を示すパネラーもいたが、だからこそ、教員という立場の者はそれを正しく分かった上で
子供たちに教えなければいけない。と続けた。
一連の流れを見ていて、自分自身の中でモヤついていたものが解消されるのを感じた。
ウェブ上でバラエティ番組の内容についてSNSの批判を目にすることがある。
100%倫理観から逸脱している対象もある。しかしそれを前提にしても、
マジョリティに相乗りしている面もあるのではないか。人間が「可笑しみ」を
感じる生き物であることを踏まえ考え、「どこがいけない」かを炙り出す必要が
あるように思うのだ。
- 問題を浮き上がらせる
この思いを抱えながら、明くる日行きつけのショットバーでこの話題を出した。
その際マスターは、いじめの理論に少し共感しつつ「太田は問題を浮き上がらせているな」
と語った。ひとつのテーマに性善説で語っても、表面的なディスカッションで
終わってしまう。そこに対局である性悪説を出すと、なぜ?と話題が集中し、思考が働き、
次に発せられる言葉に注目が集まる。そこで共感を得られるか否かは別として、
より深く考察することができる。
近年、世間がそれぞれ属するコミュニティではあまり起きにくい流れではなかろうか。
少なくとも、私が属するコミュニティでは殆どない。
話し合う機会のたび、きっと前述の事柄が頭をよぎるだろう。
チャンスを見つけ駆使できればと強く思う。
帰り道、どことなく足取りが違ったことを今も忘れない。